第5章 自己欺瞞
https://gyazo.com/d68eb23fa1d8c20edbb48575f4ddb764
進化生物学者のロバート・トリヴァース「欺瞞とは生命と深く結びついている特性である。遺伝子から細胞、個体、集団まで、すべてのレベルで発生し、必要不可欠なもののように見受けられる」 いくつかのラン科の植物は、受粉するミツバチを引き寄せるためにほかの花をまねているが、蜜は出さない((1)) 多くの生き物に、ほかの動物が見られていると勘違いするような目玉模様がある
ポッサム、トカゲ、鳥、サメは、生きている獲物にしか興味を示さない敵に襲われないように「死んだふり」をする 寄生バクテリアでさえ同じような行動をとる
たとえば、宿主の細胞に「見える」ように細胞膜に特定の分子を「まとう」
それらはまさに顕微鏡の世界におけるヒツジの皮をかぶったオオカミだ((2))
当然、わたしたちの朱も例外ではない
欺瞞を用いれば、コストを全部払わなくても、いくらかの利益を刈り取ることができる
すべての社会にうそをつくことをよしとしない規範があることは間違いないが、それなら捕まらないようにするために若干努力すればよいだけ
わたしたちがだますのは他者だけではなく、自分自身もだます
私たちの心は、重要な情報を日常的に歪めたり無視したりしている
彼によれば、わたしたちの脳は「情報を求めて」おきながら、「それを破壊する行為に走る」のだ
人の感覚器官は、すばらしく詳細かつ正確に外界をとらえるよう進化してきた(中略)それはまさに、外界について正しい情報を得たほうがうまく生き延びられる場合に起きるべき進化である。ところが、その正しい情報は脳に到達したとたんにしばしば歪められ、偏って意識に伝えられる。わたしたちは真実を否定する。自分を正しく表している事実を他者に投射して、あげくの果てには攻撃までする。つらい記憶を抑圧し、まったく事実と異なる記憶を作り上げ、道徳に反する行動に理屈をつけ、自己評価が上がるような行動を繰り返し、一連の自我防衛機制を示すのである。((3))
人は生活のさまざまな場面で自分をだます
スポーツの例
ボクサーが戦っているあいだの怪我をわざと無視する、あるいはマラソンの走者が「実際」よりも疲れていないと自分に思い込ませる状況を考えてみればよい((4))
競泳選手の研究では、自分をだますことに長けた選手のほうが、重要な予選試合でよい成績を出せることが分かっている((5))
健康の例
わたしたちは自分が実際より健康に見えるように、自身の健康状態に関する重要な情報を歪めたり無視したりすることが、多くの研究結果からわかっている((6))
たとえばある研究では、患者にコレステロールの検査を行ってから数ヶ月後に何を覚えているかを尋ねる追加調査をした
検査結果が最悪だった患者は、検査結果を誤って覚えている蛍光がもっとも強く、実際よりもよい、結果だったと記憶していた((7))
喫煙者は、たばこを吸わない人と違って、喫煙の危険な影響には耳を傾けないようにしている((8))
わたしたちはまた、運転能力、社交術、指導力、運動能力についても自分をだましている((11))
旧来の概念 自己欺瞞は防衛である
自分を騙す原因については大まかに二つの考え方
旧来の概念は、人は自己防衛のために自分を欺くというもの
フロイトは自己欺瞞を、問題をうまく乗り切るためのほとんどの無意識の対処法と考えた フロイトによれば、心がこの防衛機制を用いるのは、不安などの精神的な苦痛を軽減するため
のちに、20世紀半ばのオットー・フェニケルを受け継いだ心理学者らは、防衛機制の目的を「自尊心を守るため」と解釈し直した((13)) つまり、わたしたちは事実をコントロールできないから自分を騙すという上品で常識的な説明をした
Podcast『Radiolab』の一コマで、自己欺瞞の実験的研究の第一人者であるハロルド・サッカイムは以下のように説明した サッカイム「(うつ状態の人は)世の中のすべての苦痛を、人々がたがいにどれほど残酷かを感じ取っています。それから、自分の弱さや自分が他者に対して行ったひどいことについてなど、自分自身についても赤裸々に語ります。そして問題は、彼らが正しいということなのです。ですから、わたしたちの支援は、彼らが間違える手助けをしているということなのかもしれません。」
司会「真実だとわかっている見解を隠す、そうした見解を自分自身から隠すということが、うまくやっていく秘訣だということなのでしょうか。」
サッカイム「わたしたちは傷つくことに対してあまりに弱いので、真実を歪める能力を天性のものとして与えられているのです。((14))」
この旧来の概念は、ある重要な点を見落としている
なぜ自然の女神は進化の過程で((15))、人間の脳をこのように作ったのか
もし目的が自尊心の維持なら、自分を脅かす情報に対して単純に脳の自尊心のメカニズムを強化し、頑丈なものにするほうが効率がよい
同様に、目的が不安の低減であれば、一定のストレス量に対して感じる不安が少なくなるよう脳を設計するほうがよい
自尊心の維持や不安の低減に自己欺瞞を用いるのはずさんな対処法であり、最終的に自滅を招く
冬に体を暖めるためにヘアドライヤーを暖房の温度調節器に当てているようなものだ((16))
あるいは大規模を指揮する将軍が、空想で地図にを書き換えるようなもの
したがって、自己欺瞞にはたんなる安心感以上の理由が必要
新しい概念 自己欺瞞は巧みな操作
近年になって、進化論的な論法に焦点をあてる心理学者らが、自己欺瞞についてより満足のいく説明を編み出している
旧来の概念が自己欺瞞を主として内向き、防衛、そしておもに自滅と考えるのに対して、新しい概念ではそれを主として外向き、操作的、結局のところ自分を利するものと考えている
しかしながら、新しい概念のルーツは、協力と対立のゲーム理論の研究で知られているノーベル賞を受賞した経済学者トーマス・シェリングにまでさかのぼる((17)) 1967年の著書『紛争の戦略 ゲーム理論のエッセンス』で、シェリングはみずからが「混合動機ゲーム」と呼ぶものについて考察している これは、二人以上の人間がいて、それぞれが求める利益に、重複する部分と対立する部分があるような状況を指す
一部の利益が重複するため、彼らには協力する動機があるが、同時に対立する部分もあるため、たがいに争うことにもなる
これは私たちが日々行っていることであり、わたしたちの心はそのために作られている
それでもなお、シェリングが証明してみせたように、混合動機ゲームは直感に反する奇妙な行動を引き起こすことがある
典型的な例はチキンゲーム
大抵の場合、これはティーンエイジャーが車で行う競争で、まっすぐ走れば衝突するようにたがいに向き合って車をスタートさせ、先にハンドルを切ったほうが負けになる((18))
しかし、もし本当に勝ちたいのならシェリングがそのためのアドバイスをしている
自分の車のハンドルを外して相手に向かって振る
そうすることで、相手にこちらがハンドルを固定し、不動の姿勢で、決死の覚悟であることがわかる
そしてその時点で、死にたいのでないかぎり、相手は先にハンドルを切らなければならず、自分が勝者になる
このハンドルを外すという行動が直感に反する理由は、たいていの場合、自分の選択肢を狭めることは最適な判断とは言えないから
しかしシェリングは、混合動機ゲームのひねくれた動機づけによって、選択肢の制限など、不合理に見えて実は戦略的な行動が引き起こされている様々な状況について詳しく述べている
意思疎通を閉じる、あるいは弱める
たとえば、ある人から頼み事の電話がかかってくるとわかっているときに、わざと電話の電源を切っておく
そうすれば面倒な話を、直接ではなく電子メール経由でできるかもしれない
未来の罰に目を向ける
シェリング「法人の法的権限のなかでも教科書に書いてあるふたつは、訴える権利と訴えられる『権利』である。訴えられたい人などいるはずもない。しかしながら、訴えられる権利とは契約を行う権限である。つまり、借金をする、契約を結ぶ、問題があるかもしれない相手と取引をする権限だ。訴訟が起きて、あとから振り返れば、その「権利」は不都合なものである。けれども、そうならなければビジネスを行うための必要条件なのである」((19))
情報を無視する
たとえば、自分が誘拐された場合、誘拐犯の顔を見たり名前を知ったりしたくないと思うかもしれない。のちに警察に対して誘拐犯を確認できるとしたら、誘拐犯が自分を解放する可能性が低くなるからだ。
場合によっては、知識は深刻な重荷になりうる
あえて誤りを信じる
たとえ可能性が低くても、頑として自分の軍隊は勝てると信じる将軍なら、敵を怖気づかせて後退させることができるかもしれない
別の言葉で述べるなら、混合動機ゲームには自己欺瞞をよしとするような動機づけが含まれている
単純に不確かさをなくして最善の判断をするという決定理論を実行するなら、選択肢や知識は多ければ多いほどよいはず シェリングは、様々な場面で、自分自身を制限したり妨害したりすることが「勝利の決め手」になっていると主張する
この駆け引きの緊張状態は実は容易に緩めることができる
昔ながらの決定理論が言う通り、自分自身の妨害自体に価値はなく、価値があるのは、自分で自分の首を絞めていると他者に信じ込ませることにある
チキンゲームなら、ハンドルを切れないからではなく、ハンドルを切れないと相手が信じるから勝つ
誘拐の被害者なら、相手が顔を見られたと思うから報復を受ける
もしどうにかして誘拐犯にまったく気づかれずに顔を見ることができれば、それはおそらく自分にとって有利に働く
この論法に沿っていくと、自分の知識に「秘密の」ギャップがあったり、自分だけしか知らない偽りの信念を用いたりすることは不利益になる
戦略的無知やそれに関連する現象の価値はすべて、相手がその無知を信じて行動するところにある
クルツバンいわく「無知はそれが広く知られているときにもっとも役に立つ」((20))
無知は宣伝され、目立たなくてはならない
別の見方をすれば、自己欺瞞はこちらの精神状態を考慮する相手に対してしか役に立たない
自己欺瞞は社会的な状況において社会的な生き物にのみ用いることのできる手法である
結論として、わたしたち人間は自己欺瞞でなくてはならないのである
そうした心理戦を拒む人は、行う人と比べてゲーム理論の観点から不利になる ゆえに、わたしたちはしばしば重要な情報を無視しているように見え、容易に見破れるうそを信じ、そして歪んだ思考をこれみよがしに宣伝する
トリヴァースの言葉を借りれば、わたしたちは「他者をうまく欺くために自分自身を欺く」((21))
なぜ自分のうそを信じてしまうのか?
自己欺瞞の目的が他者に特定の印象を与えることなら、なぜ自分自身に対しても真実を歪めるのだろう?
この問いには多くの答えが存在するが、うそは撤回が難しいということにおおむね要約できる
ひとつの例として、うそは認知的に過度の労力を要する
マーク・トウェインの小説に登場するハックルベリー・フィンは自分の話の辻褄を合わせるのがたいへんで、最後にはたくさんのうそで身動きがとれなくなってしまった マーク・トウェイン「真実を告げていれば、何も覚えておかなくてよい」((22))
認知的な要求とは別に、うそが暴かれるおそれを克服しなければならないという点でもうそは難しい
人はうそをつかれると怒る
これはうそをつくことと同じくらい万人に通じる反応
ハチでさえほかのハチのうそを見抜くとそれに応じて報復する((23)) したがって、ほとんどの人はしらじらしいうそをつくことを恐れ、不安が原因の「気配」からボロが出て苦い経験をしている
心臓の鼓動は速くなり、体がかっと熱くなり、冷や汗が出て、そわそわする
もしかすると、目がぴくぴくしたり、顔がひきつったり、不自然に息を呑んだり、声がうわずったりするかもしれない((24))
これらを考え合わせると、他者に何かを信じさせるための最適な方法はそれを真実にしてしまうこと
チキンゲームで対抗する相手に「おい、おれはハンドルをはずしたぞ」と叫んだところで大した効果はない
相手は実際にそれを目で見ない限り信じないだろう
同様に、多くの場合、自分がなにかを信じていると他者を納得させる最適の方法は、自分が実際に信じること
要するに、わたしたちの心は自分が思っているほど秘密にされてはいない
他の人々にはこちらが何を考えているかが部分的に見えている
心が透けて見えるという事実に直面したとき、他者をだますもっとも強力な方法はたいてい自分をだますことだ
意識的あるいは意図的ではないので正式にはうそではないが、同じような効果がある
トリヴァース「わたしたちは自分の意識に対して真実を隠す。傍観者からそれをうまく隠すために。」((25)) 正確に世界をかたどることだけが人間の脳の最大かつ最重要な目的ではない
脳はわたしたちの体、最終的には遺伝子が、世を渡り、他者をしのいでいけるよう進化した そして、人生の大部分をその他者と交わって過ごしているのなら、特定のものごとについて他者を納得させようとしているのなら、世界をかたどるだけでなく、優良な市民として世を渡っていくうえで有益な考えを、人間の脳が採用しないはずがない
仮面を被り続けると、やがてそれが自分の顔になる((26))
何かが真実であるふりを続ければ、やがてそれが信じられるようになる((27))
ついでながら、これこそが自己欺瞞の事例研究に政治家がうってつけである理由
彼らの考え方に対する社会的圧力は計り知れない
つまり、心理学的に、政治家は「うそ」をついているというよりむしろ自己欺瞞を繰り返しているのだ((28))
どちらも他者を欺く方法だが、自己欺瞞のほうがはるかに発見されにくく告発されにくい
実社会における自己欺瞞
混合動機の状況で自己欺瞞によって有利になれる方法は少なくとも4つある
狂人タイプ
特定の行動に固執すると、他の人の動機づけが変化する事が多い
ハンドルを外せばチキンゲームに勝てる例がそれだが、実業家、ギャングのボス、スポーツ選手、その他の競争に参加する人々が、競争相手を精神的に出し抜こうとするときにもそれがあてはまる
陸上競技の選手はレースのあいだ、近くにいる競争相手からほんの小さな疲労の兆候を拾って自分を駆り立て、前へと突き進む。たとえばマラソンの走者は「あいつの呼吸が見えるか? ほとんど限界だ。もう少し頑張り続ければあいつに勝てる」と考えている。そのため選手は自分自身に関する負の情報を競争相手に悟られないようにする。「弱さの兆候」を見せてしまうと、相手はそれをチャンスととらえ、エネルギーを注ぎ続けようという気持ちになるからだ。((29))
これはまたベトナム戦争時のリチャード・ニクソンの戦略の一つだった。彼は首席補佐官のボブ・ハルデマンにこう説明した 狂人理論だよ、ボブ。わたしが戦争を終結させるためには何でもやるところまできていると北ベトナムに思い込ませるんだ。「なんということだ、ニクソンは共産主義のことばかり考えている」と口を滑らせる。「ニクソンは起こったら手がつけられない――そして核のボタンにすでに手を伸ばしている。」そうすれば二日後にはホー・チ・ミン本人がパリに出向いて和平を願い出るだろう。((30)) ニクソンの計画は思惑通りには運ばなかったが、彼の理論の道筋は打倒である
人々はしばしば狂人にしたがい、わたしたちの心はその動機づけに対して自分も若干むちゃになることで応じる
忠臣タイプ
多くの面で、信じることは政治的な行動である
仲違いや職場の議論で、たとえ同じくらい説得力のある相手側の意見が存在することはわかっていても、一般的に友人の側の話を信じるのはそのためだ
宗教団体、社会、職業、政治団体で盲信が重要な美徳であるのもそのため
集団の根本となる理念が絡んでいる場合、いちばん声高に詠唱やシュプレヒコールを続けたり、矛盾する証拠に対して頑なに目をつぶったりして、もっともぐらつかない忠誠を示した者が、誰よりも仲間の信用を勝ち取る
実際、わたしたちは人間関係における忠実さを、不合理な考えや証拠に裏付けられていない考えを信じるかどうかで測っていることが多い
たとえば、他社でもらえる給料の二倍をもらっているのでその会社で働き続ける社員は「忠実」とはみなされない
こうした結びつきが忠実の性質を帯びるのは、それを断ち切るような強い誘惑があってもなお忠誠を示す場合
そしてまた、真実を信じても忠誠を示すことにはならない
どのみちそれを信じる動機がいくらでもある
忠実でなければ信じる理由などないものごとを信じることでしか忠誠は示せない
忠臣の役割がうまく描かれている中国の有名なたとえ話がある
ジャオ・ガオは権力に飢えた大物だった。ある日彼は、皇帝やトップクラスの完了がたくさんいる会議にシカを連れてきて、それを「大きなウマ」だと言った。ジャオ・ガオを師と仰ぎ、信頼を寄せている皇帝はウマだと同意した。多くの官僚も同じように同意した。ところがなかには沈黙を保ったり異議を唱える者がいた。ジャオ・ガオはそうやって自分の敵をあぶり出した。その直後、彼はシカをウマと呼ぶことを拒んだ完了全員を殺害した((31))
チアリーダータイプ
「わたしはこれが本当だと思っているの。だからほら、一緒に信じましょう。」
クルツバンによれば「ときに(中略)間違っていることが役に立つ場合もある。自分が信じている正しくないものごとをほかの全員も信じてくれれば、その人は戦略的に優位に立てる」((32))
ゆえに、チアリーディングの目的は他者の考えを変えることである。
自分が熱烈に信じていればいるほど、他者にそれが正しいと思わせることが容易になる
何が何でも勝つと自信を持っている政治家は、自分の勝率を正直に評価している政治家よりも支持を集めやすい
自信あふれる起業家は、たとえ全面的にその自信に値しなくても、自分の能力を正確に評価している起業家より多くの投資家をひきつけ、従業員を集められる
自分の健康について、情報をまるまる避けたり、すでにわかっている情報を曲解したりして自分をごまかすとき、わたしたちは目を背けたくなるような情報から自分を守ろうとしていると感じられる
けれども、自我に盾が必要な理由は、社会的に前向きな印象を維持するため
自分の現在の健康状態を誤解したところで個人的に得るものはなにもないが、自分が健康であると他者に誤って信じさせることには利点がある
そして他者に確信させるための最初のステップは自分が確信すること
ビル・アトキンソンはかつて、ジョブズの自己欺瞞についてこう語った「彼が自分のヴィジョンを信じるよう人々をだますことができるのは、彼自身がそのヴィジョンを信じて疑わず、完全に自分のものにしているからだ」((23))
詐欺師タイプ
多くの規範はそれに関わる人の意図に左右される
わたしたちが自分の動機について自分自身を欺くと、他者がこうした小さな違反を告発することはとても難しくなる
ほかにも規範に違反するかどうかを決定するものが意図ではなく知識である場合がある
ときに違反があるとわかると、それについて何かしなければならない道徳あるいは法律上の義務が発生する((34))
友人が万引をしているところを見たら、犯罪の共犯者になる
ここであげたすべての例においてもまた、自己欺瞞が機能するのは、他者が自分の心を読もうとしており、そこに見えるものに基づいて行動しようとしているため
つまり、わたしたちは自分をだますことで、しばしば他者をだまして操ろうとしている
もちろん、これらはたがいに相容れないものではない
自己欺瞞によっては一度に複数の目的を果たす場合もあるだろう
殺人容疑者の息子を無実だと信じている母親は、息子にとっては忠臣であり、裁判員に対してはチアリーダー
モジュール性
自己欺瞞の利益はつまり、状況によって、それが他者を惑わすために役立つこと
主要なコストは最善とは言えない意思決定につながること
しかし幸運なことに、わたしたちは全面的に自分の欺瞞の矢面に立たされることはない
大抵の場合、少なくとも脳の一部は真実を把握し続けている
言い換えれば、救いは一貫性のないこと
「心理学でもっとも重要な考え方を理解するためには、心がときに矛盾する複数の部分に分かれていることを理解しなくてはならない」
わたしたちはひとつの体にはひとりの人間がいると思い込んでいるが、いろいろな意味で、わたしたちの各自が、話のかみ合わないメンバーがかき集められて作業している委員会のようなものである((35))
心の分け方には多数の案がある
聖書は頭と心に分けている
ダグラス・ケンリックは夜間警備員、抑制不能な心気症患者、チームプレイヤー、見つけたら必ず手にする敏腕家、遊び好きな独身者、良妻良夫、子育てをする親という7つの「下位自己」を作り出している((37)) こうした案のいずれも、ほかのものより決定的に優れているわけではないし、正確でもない
それらは単に、現実にははるかに細かくて複雑な、同じようなシステムを分割するための異なる方法でしかない
現代の心理学者は脳を何十万もの異なる部分、すなわち「モジュール」の寄せ集めととらえ、各モジュールが少しずつ異なる情報処理タスクを遂行していると考える
一部のモジュールは視野の端を検出したり、筋肉を収縮させたりするといったレベルの低いタスクを処理している
別のモジュールは歩行や動詞の活用など、中程度の作業を処理している
さらにレベルの高いモジュールはそれ自体がレベルの低いモジュールの集合体で、不正行為者を見抜いたり((38))、社会的な印象づけを管理したりするようなものごとの責任を担っている
要するに、脳の中にはたくさんの異なるシステムが有り、ひとつひとつは他のシステムにつながっているけれども、同時に部分的に隔離されてもいるということ
そしてきわめて重要なことに、ハイトの主張によれば、その様々に異なる部分はいつも意見が一致しているとは限らない これは盲視という症状にきわめてはっきりと表れている 一般に視覚野に脳卒中が起きた場合など、一種の脳の損傷によって生じる症状 通常の視覚障害者と同じように、盲視の患者は何も見えないと断言する
ところが教材用カードを見せて、そこに描かれているものを推測するよう求めると、単なる偶然よりよりよい結果を出す
明らかに、たとえ意識を司る脳の一部は認識していなくても、別の部分が視覚情報を記録している((40))
脳の中にいくつものシステムが存在するという観点から、自己欺瞞を考える
わたしたちの脳波「行動の可能性を評価する」というタスクを与えられたシステム内では、一連の考え方を比較的正しく維持している
それでいて、その正しい考え方を「社会的印象を司る」意識のようなシステムからは隠し続けることが可能なのえある
別の言葉で述べるなら、わたしたちは言語と意識を操る自我にはアクセスできない情報に基づいて行動することができる
また裏を返せば、行動を調整する仕事をしているシステムに情報を流さなくても、意識である自我で何かを信じることもできる
たとえば、どれほど熱心にに天国を信じていたとしても、やはり死ぬのは怖い
それは自己保存を任されている脳の奥の古い部分が死後の世界を少しも認識していないから
自己保存システムは抽象的な概念は扱わない
自殺は難しいという事実が証明しているように((41))、それは自動操縦で動き、上書きがきわめて困難であるべき
「わたしたちは自分の行動に関する表立った動機の一部は自覚しているが、その舞台裏で、脳の古いメカニズムによる下意識の働きのなかに隠されている、心の奥深くにある進化上の動機にはアクセスできないことが多い((42))
つまり、人間の脳の構造そのものが、あることを信じながら別の行動をとるというような、偽善者的な行動を可能にしている
情報が脳の別の場所にある限り、わたしたちは知っていながら、同時に無知であり続けることができる((43))
自己隠蔽
もしかすると自己「隠蔽」は、他者を操作するために自分自身に対して行う、もっとも重要でありながら目立たない心理戦かもしれない
これは、自分にとって不利かもしれない情報を心理的に重視しないというわたしたちの心の習性
それは積極的に自分にうそをついてそのうそを信じ込むという自己欺瞞の露骨な形とは異なる
また、危険かもしれない情報をなるべく学ばないようにするという戦略的無知の形とも異なる
心とはたがいにぺちゃくちゃ喋っている小さなモジュール、システム、下位自己の集まりだと考えてみよう
このおしゃべりが主に、意識と無意識の療法における、私たちの内部の精神活動である
よって自己隠蔽は「異なる脳の部分のあいだの隠蔽」
脳の一部が、たとえば特定のやりとりで優位に立ちたいというような慎重に扱わなければならない情報を処理する必要があるとき、その脳の部分は必ずしも意識的に大騒ぎはしない
その代わり、わたしたちは自分が優位にたつまでなんとなく落ち着かず、優位に立った途端に気持ちよく会話を終えられる
情報の扱いに慎重を要する理由は、ひとつにはその情報が自分の自己像、ひいては社会的な印象を脅かす可能性があるため
そこで脳の残りの部分は、そのような情報が必要以上に目立たないように、とりわけ意識されないようにと、結託してひそひそ話をする
その意味で、意識である自我は保護されなければならないと述べたフロイトは正しい
けれどもその理由はわたしたちが傷つきやすいからではなく、不利になる情報が脳から漏れ出して他者の心に入り込まないようにうするため
自己隠蔽はいたってさりげなく行われていることもある
自画自賛するような情報を強調するために多くの時間と注意を費やし、不名誉な情報にはあまり時間と注意を払わない
((44))
おさらい
要約すると、わたしたちの心は、社会競争で他者より優位に立つために情報を妨害するよう作られている
社会規範に違反しようとしていることを自分の心の大部分が知らなければ、他者がその違反を見つけて訴えることは余計に難しくなる
自分にとって最適な行動を算出することも難しくなるが、全体としてはそのトレードオフはやるだけの価値がある